電車の腹の中で

電車の通路を歩く。

効率的に乗り換えるために、本当はあまり歩きたくないけれども歩いてしまう。

電車の腹の中で遠くを見つめると、先頭の方がうねうねと曲がっているのが見える。

自分のいる車両も今からあんな風に曲がるのだ。

蛇の腹の中のよう、と喩えられることがあるが、蛇の腹はこんなに明瞭ではない。人の目もこんなにたくさん存在しない。

 

退路をあるくと、両脇には人々が座っている。本日はちょうどよく、通路は空いているが席は全て埋まっているという完璧な設定だった。

たくさんいる人の目を通じて、私は私をみている。自分は遥か先のうねうねを見つめながら、もう一つの目では、私は腹の中を歩く私を見つめている。私は私でありながら、私を見つめる他者にもなれる。

 

1人目の前を通る。その人の目になって私をみる。なぜそんなに急ぐのだろう?私ではない私が疑問を持つ。

2人目の前を通る。危ないなあ、空いているとはいえ、いつよろけるかもわからない中で歩いている私の視野の狭さを私が批判する。

3人目の前を通る。こんなに人目がある中で歩くことはさぞ恥ずかしかろう、自分だったらとてもじゃないけど平気な顔をして歩けない、と私は私を少し小馬鹿にする。

4人目の前を通る。何か急ぐ理由があるらしい。気の毒に。せかせかと動き回らなければ生活ができないのは可哀想だなあ、と私は私の生活を憐れむ。

5人目の前を通る。私は私に気がつかない。

6人目の前を通る。ちらと見て、容姿についてほんの一瞬意見を持つ。

 

平気な顔をして、うねうねの先に大切な用があるんですと堂々と歩きながら、私は私を見る他者の視点から私の存在を感じている。

ほんの少しだけ、恥ずかしい。

自分の持つ自己意識も恥ずかしい。

 

目当ての車両にたどり着く。次の乗り換えにも問題はない。やっと私は大勢の中のひとりに戻る。溶け込み、自意識もまた埋もれていく。

私は電車のうねうねを忘れて、次の乗り換えのために歩くことだけに集中する。

バッタと実存

自宅の郵便受けに蜘蛛がいるのを目撃した。

元々そこを住処にしているかのように、悠々と私の目の前で休んでいる様子に一瞬怯んでしまう。とりあえず郵便を確認するため、ゆっくりと受け口を開け、ゆっくりと元に戻したが、まだいる。

私は怯んだのに、蜘蛛は全く怯んでいない。

蜘蛛からすると人間の存在とは一体なんなのだろう。人間の動作は、蜘蛛にとってはほとんど自然現象に相違ない。とすると、我々は人間であり自然の一部なのである。

と壮大な事を考えている間にも蜘蛛はまだいる。

あまりにも見つめすぎたために蜘蛛もさすがに動揺したのか、やっと郵便受けの周りを手早く移動し始めた。

こうやって郵便にくっついた蜘蛛は、いつか自宅内に勝手に招待されるのだろうか。

 

以前、「バッタがいたよ」と静かな室内で突然に報告をしたAがいた。

そこは非常にキレイな室内で、バッタどころか蟻さえも侵入困難な場所である。

「あ、そうなの」ととぼけた返事をしてみたが、バッタが気になってしょうがなかった。

ここにバッタがいる、いるはずのないバッタがいる。侵入をしてきている。バッタはどこにでも侵入することが可能である。つまりここにもあそこにもバッタがいて当然ということになる。バッタは恐ろしい。そこに居るだけじゃなく、飛ぶこともできる。

実際にはそこにバッタはいるはずがない。探したがいなかった。

「なぜバッタなどと?」と何度も考えたが、もちろん答えは出ない。全く意味のない発言に非常に戸惑い、今もその意味を探し続けている。

実はそこで謎のバッタの存在を指摘されたことで、ふいにバッタの事を考えてしまうようになった。

様々な場所で「まさかね」とバッタの存在をふと気にしてしまう事がある。

楽しんでいる時にも、ふとした瞬間に「でもここにバッタが…?」などと頭に浮かぶ。

バッタと言う存在を私の意識に浮き彫りにさせたAが恨めしい。

 

実はAには本を一冊貸している。もう10年経つがまだ返却はされていない。

私の青春時代に影響を与えた哲学者、ジャン=ポール・サルトルの書籍である。

彼の言う事には「実存は本質に先立つ」のである。

バッタはまず実在し、我々がそこに意味を与えているだけなのかもしれない。バッタは昆虫であり、強くしなやかな足を活用して人間に飛び掛かってくるという意味付けを、我々は勝手に与えて恐怖しているのである。

ともすれば、バッタとは一体なんなのだろう?

いや、そのことを考えるのも格好悪いのだ。そこにある、実存としてのバッタを、我々はとくと観察する必要があるのだ。

 

Aとは恐らくもう二度と会う事もない。

バッタの存在を指摘して私の頭の中に恐怖を植え付け、なおかつお気に入りの本を一冊拝借していったA。短く浅い付き合いにもかかわらず、しつこく私の記憶の隅に残り続けられているとは向こうも思っていまい。

 

 

思い立ったがを考える

じんわりと暑い。集荷を待っている。

目の前にはパソコンと、水と、本が並ぶ。

使いたい順番で並んでいる本は、規則性があるようで全くない。縦も揃っていないし、横にすら並んでいない。平日の午前中、夏の休みに仕事をしようと机に座る。

 

そんな時に限って、「今」には全く必要にない事が頭に浮かぶ。

あの時のあの人、視界に入ったよくわからない看板、さびれた玄関先にあった綺麗な鉢植え、過去の私か、それとも今の私か。

 

最近、ものを考えないようにすることに慣れてきた。

仕事に役に立つこと以外を、頭から追い出して、なんともないように振る舞うことが得意になってきている。夜もすんなり眠れるし、朝もすぐに起きることができる。

昔は眠くて眠くてたまらず、毎日遅刻しようか、なんと言い訳をしようか考えていたことが信じられないほど。

夜に眠れない時には、なんの情報もない情報を眺めることが良いと気が付いた。

情報もない情報とはなんのことかと訳が分からないが、「部屋をきれいにしようと奮闘している人」のつぶやきを見るのが心地よいらしい。何も感じることなく、なんとなく眺めているうちに睡魔がやってくることに甘えている。

 

自分の考えを、もう少し大事にしてやってもいいんじゃないかと思った。

かなり唐突に沸き上がる気持ちをとりあえずは捨てないようにして、逡巡した末に今これをしたためている。

実際には、明日の仕事のことや今日の買い物のこと、目の前に広げっぱなしの本の一文など現実のことに気を取られているが、私もそろそろそれっぽく、考えを文字にしてみることを試してみても良いのではないかと思っている。

目の前のパソコンでWordの中だけにしたためないのは、他者に見てもらいたいという自分のあさましい気持ちがあるということは間違いない。あわよくば、こんなこと考えている人が居るんだなあと、ある時にふと気にしてもらえるようなことを期待しているのかもしれない。実際、そうだ。でなければ、こうやって世界中にアピールする必要はない。

 

昔のことを思い出すことが増えているが、うまくかわすことができるようになっている。それでいいのか?とその問いからもするりと逃げてきた自分がいる。

考えることを考えることが必要なのではないか、ということは何も私だけが持っている気持ちではない。漠然とした焦りがあるのかもしれない。何を不安に思っているのかも掴めない。理由ならばいくつでも言えるが、それらに全て責任を与えるのは違うような気もしている。

 

ここには、とりとめなく何を書いても良い、とゆるく取り組むことを自分に許した。

今日は休みだが明日は仕事、休みだけれども自室で仕事に向かう。それも許す。