思い立ったがを考える
じんわりと暑い。集荷を待っている。
目の前にはパソコンと、水と、本が並ぶ。
使いたい順番で並んでいる本は、規則性があるようで全くない。縦も揃っていないし、横にすら並んでいない。平日の午前中、夏の休みに仕事をしようと机に座る。
そんな時に限って、「今」には全く必要にない事が頭に浮かぶ。
あの時のあの人、視界に入ったよくわからない看板、さびれた玄関先にあった綺麗な鉢植え、過去の私か、それとも今の私か。
最近、ものを考えないようにすることに慣れてきた。
仕事に役に立つこと以外を、頭から追い出して、なんともないように振る舞うことが得意になってきている。夜もすんなり眠れるし、朝もすぐに起きることができる。
昔は眠くて眠くてたまらず、毎日遅刻しようか、なんと言い訳をしようか考えていたことが信じられないほど。
夜に眠れない時には、なんの情報もない情報を眺めることが良いと気が付いた。
情報もない情報とはなんのことかと訳が分からないが、「部屋をきれいにしようと奮闘している人」のつぶやきを見るのが心地よいらしい。何も感じることなく、なんとなく眺めているうちに睡魔がやってくることに甘えている。
自分の考えを、もう少し大事にしてやってもいいんじゃないかと思った。
かなり唐突に沸き上がる気持ちをとりあえずは捨てないようにして、逡巡した末に今これをしたためている。
実際には、明日の仕事のことや今日の買い物のこと、目の前に広げっぱなしの本の一文など現実のことに気を取られているが、私もそろそろそれっぽく、考えを文字にしてみることを試してみても良いのではないかと思っている。
目の前のパソコンでWordの中だけにしたためないのは、他者に見てもらいたいという自分のあさましい気持ちがあるということは間違いない。あわよくば、こんなこと考えている人が居るんだなあと、ある時にふと気にしてもらえるようなことを期待しているのかもしれない。実際、そうだ。でなければ、こうやって世界中にアピールする必要はない。
昔のことを思い出すことが増えているが、うまくかわすことができるようになっている。それでいいのか?とその問いからもするりと逃げてきた自分がいる。
考えることを考えることが必要なのではないか、ということは何も私だけが持っている気持ちではない。漠然とした焦りがあるのかもしれない。何を不安に思っているのかも掴めない。理由ならばいくつでも言えるが、それらに全て責任を与えるのは違うような気もしている。
ここには、とりとめなく何を書いても良い、とゆるく取り組むことを自分に許した。
今日は休みだが明日は仕事、休みだけれども自室で仕事に向かう。それも許す。