バッタと実存

自宅の郵便受けに蜘蛛がいるのを目撃した。

元々そこを住処にしているかのように、悠々と私の目の前で休んでいる様子に一瞬怯んでしまう。とりあえず郵便を確認するため、ゆっくりと受け口を開け、ゆっくりと元に戻したが、まだいる。

私は怯んだのに、蜘蛛は全く怯んでいない。

蜘蛛からすると人間の存在とは一体なんなのだろう。人間の動作は、蜘蛛にとってはほとんど自然現象に相違ない。とすると、我々は人間であり自然の一部なのである。

と壮大な事を考えている間にも蜘蛛はまだいる。

あまりにも見つめすぎたために蜘蛛もさすがに動揺したのか、やっと郵便受けの周りを手早く移動し始めた。

こうやって郵便にくっついた蜘蛛は、いつか自宅内に勝手に招待されるのだろうか。

 

以前、「バッタがいたよ」と静かな室内で突然に報告をしたAがいた。

そこは非常にキレイな室内で、バッタどころか蟻さえも侵入困難な場所である。

「あ、そうなの」ととぼけた返事をしてみたが、バッタが気になってしょうがなかった。

ここにバッタがいる、いるはずのないバッタがいる。侵入をしてきている。バッタはどこにでも侵入することが可能である。つまりここにもあそこにもバッタがいて当然ということになる。バッタは恐ろしい。そこに居るだけじゃなく、飛ぶこともできる。

実際にはそこにバッタはいるはずがない。探したがいなかった。

「なぜバッタなどと?」と何度も考えたが、もちろん答えは出ない。全く意味のない発言に非常に戸惑い、今もその意味を探し続けている。

実はそこで謎のバッタの存在を指摘されたことで、ふいにバッタの事を考えてしまうようになった。

様々な場所で「まさかね」とバッタの存在をふと気にしてしまう事がある。

楽しんでいる時にも、ふとした瞬間に「でもここにバッタが…?」などと頭に浮かぶ。

バッタと言う存在を私の意識に浮き彫りにさせたAが恨めしい。

 

実はAには本を一冊貸している。もう10年経つがまだ返却はされていない。

私の青春時代に影響を与えた哲学者、ジャン=ポール・サルトルの書籍である。

彼の言う事には「実存は本質に先立つ」のである。

バッタはまず実在し、我々がそこに意味を与えているだけなのかもしれない。バッタは昆虫であり、強くしなやかな足を活用して人間に飛び掛かってくるという意味付けを、我々は勝手に与えて恐怖しているのである。

ともすれば、バッタとは一体なんなのだろう?

いや、そのことを考えるのも格好悪いのだ。そこにある、実存としてのバッタを、我々はとくと観察する必要があるのだ。

 

Aとは恐らくもう二度と会う事もない。

バッタの存在を指摘して私の頭の中に恐怖を植え付け、なおかつお気に入りの本を一冊拝借していったA。短く浅い付き合いにもかかわらず、しつこく私の記憶の隅に残り続けられているとは向こうも思っていまい。